2012年8月20日月曜日

作品後記|実はまだ終わっていない


文章:飯名尚人

まだ終わってない、なんて書くと出演ダンサーたちは「えー、まだあんな過酷なリハーサルが続くのか」と思うかもしれません。なにしろダンサーにとって休むヒマの無い作品でしたから。

僕は、その作品が上演し終わったあとに、実は作品が始まる、と思っています。そうでなければいけないと思っています。作り手としては、そういう作品を観客のみなさんに提供しないといけないと思っています。なかなかそこまでのレベルに自分が作家として到達出来ていない、という焦燥感もありながらも、そういう理想と目標を掲げています。

この作品『境界線上のヘヴン』の中の物語は、上演時間1時間40分の中で、演出上の始まりがあって、演出上の終わりがありますが、その先は実はまだまだ終わっていない物語が続きます。特に『境界線上のヘヴン』で抱えたテーマが、「天国すら疑ってみる」という「疑い」であって、すべての疑いが晴れるまで延々と自問自答が続くわけです。

この作品での僕の役割は「共同演出・映像」です。3つの映像作品を事前に作りました。プロモーションビデオと称していますが、実は、映像作品を作ったつもりです。観た人も観てない人もいるかもしれないですが、この3つの映像の中のイメージは、舞台上で描かれる世界の予兆です。パラレルワールドとでもいうか、同じ世界でもあって、わずかにズレた世界でもあります。舞台を見終わってから観ると、また印象が違うのではないかと思います。




共同演出という役割として、まずやるべきことのひとつに「作品の"作り方"をどう演出するか」でした。「天国対談」にも書きましたが、演出家が2人いる、というこの作品で、僕がしないといけないことは、コンセプトを作ることと、そのコンセプトを死守すること、でした。共存できる太い軸が必要だったからです。同時に、尚子さんの描きたい世界、伝えたい世界をダンスだけでないところに向かうように仕組むことでもありました。ダンス作品なんだけど、ダンスだけで語らないようにしたかったからです。ダンスを内包した世界、を作り出したかったから、照明、音楽という空気のようなメディアの中に、ダンスをぽつんと置く、ということ、そんな作品を実現するにはどんな作り方がいいのだろうか、と思い、そんなような話を尚子さんと長く話し合ったことを思い出します。尚子さんとダンス演出の中に沢山の余白を作りながら、リハーサルを進めて来たように思います。僕個人としては、もっと余白を!と感じたのも事実ですが、自分にブレーキをかけた部分もあります。705 Moving Co.の魅力を壊す必要を感じなかったからです。それをコラボレーション(共同制作作業)の妥協という人もいるかもしれませんけど、個人的な過剰な主張がすべてを壊すこともあります。しかし、自分の提示したコンセプトは死守しないといけない、というこのジレンマが毎回のリハーサル中の葛藤でした。本番前日、劇場でのリハーサルで、ダンス、音、照明、衣装が合体したものを観たときに、死守したコンセプトがそこに見えたという確信がありました。


本作で描こうとしたものは何かと、上演後に改めて考えてみると、演出家、出演者、照明、音、衣装、ダンスミストレス、、、といった関わったメンバーそれぞれに解釈が異なっていると思います。ラストシーンはどんな意味があるのか、という質問を全員にしたら、きっと全員違うことを言うと思います。それでいい、それがいいと思います。尚子さんと僕とでも違うかもしれない。おそらく違う。だとしても、確実にひとつの世界がそこには描かれている、そういう作品になったと思います。

主観的に、あくまでも個人の解釈としてあえて言いますと、僕が本作で描きたかったのは、「人は何を信じて生きているのだろうか、生きていくべきだろうか」ということでした。いうなれば「信仰心」でした。尚子さんからのお題は「天国すら疑ってみる」「幸福と不幸、安定と不安定についての考察」というものだったので、それを受けて、クリエイションが始まる前に、僕から尚子さんに「創作ノート|整理してしまう前の雑多なイメージを残しておくためのノート。言っていることとやっていることが違わないようにするためのノート。」を渡しました。そこに書かれている内容すべてが、共同演出する際、結果的に僕が死守したものになりました。すべてのメンバーが、こういった各自の解釈、各自で死守すべきもの、というものを抱えて、クリエイションが進んでいたように思います。だから作品の中で、ここは尚子さんのアイディアで、ここは僕のアイディアで、これは、、、というような区別が、もう分からなくなりました。いろいろな解釈が入り交じって、ビジュアル化された作品になったと思います。そういう作品が僕は好きです。

客観的に、ひとりの観客として客席から本番を観ていて、観客としての僕の感想は「日本は、世界は、こういうモヤモヤした不確定な状態なんじゃないか。この作品は、世界や人々の心のモヤモヤをビジュアル化したのではないか」というものです。よく聞く「安全神話」というものが、どんどん崩壊しています。ユーロも原発も、食品の賞味期限も、原産地でさえ疑わしい時代です。だからこそ個々人で、自分の所在と思想を明確にしないといけない。「自分はどうすべきなのか」を自分で決めないといけない。本作の最後が「希望」という印象に見えるのは、希望のある世界を観客である僕が望んだからなのではないかと思います。救い、というものです。子供たちが後ろ向いて座り、大人たちも後ろを向いて立っているのは、今の自分や世界を否定しつつも、まだ見えない向こう側をじっと見続けているという現れなのではないかと。この世界に救いが無いわけがない、と僕は思うからです。そういう意味での希望と、念です。


この作品を再演できるとしたら、このまま再演はしたくないな、と思います。すでに、「もっとこうしてみたらどうだろうか」とか、「こうすればよかったのかも」とか、今更ですが「あー、わかった、そういう意味か」とか、、、、新しいアイディアがあるからです。まだ終わってないなぁ、と思うのです。

というわけで、再演バージョンの『境界線上のヘヴン』をまた披露できればと。


(2012年8月19日)


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